それは、淡い情景。

「どうして、泣かないの?」
 その言葉に、サーシャは体を止めた。トゥールはかまわず言葉を続ける。
「皆言ってるよ。サーシャ泣かなくて痛々しいって。痛いの?悲しかったら、泣いたら良いと僕は思うよ。」
「…わからないの。」
「何が?」
 サーシャは消え去りそうな小さな声を出す。
「…死ぬってどういうことなのか、分からないの。もう二度と会えないって事なのかなって思ったの。もう二度と笑ってくれないって 事なのかなって思ったの。…悲しい事だって思ったの。」
 サーシャの声が震えていた。あまりにも深い、深い悲しみの目をしていた。
「…でもね、父さんが言うの。人が死ぬのは、心臓の鼓動が止まり、天に召された時じゃないんだよって。 人が死ぬ時は、人々の心から、その人が忘れられた時。もし、サーシャが母さんのことを覚えているなら、 サーシャはいつだって母さんに会えるし、母さんはいつだってサーシャに笑いかけてくれるよって。」
 トゥールは、その言葉は間違っていないと思った。だけれど、どこか違うとも思った。ただ、それを 言葉にする事がどうしても出来なかった。
「わからないの。死ぬってどういうこと?だって父さんはいつも言ってる。死んで人は、ルビス様の元へ還るんだって、 だから土に埋めるんだって。…それは悲しい事なの?死ぬって、嫌な事なの?私は喜べばいいの?… 母さんに、もう抱きしめてもらえない、悲しい。でも、母さんが嬉しいことなら、喜ばないと、駄目だから…。」
「…死ぬのは、悲しいことだよ。だって、もう何も出来なくなるから。…それに、大事な人の 側にいられないことだから。会えなくなっちゃうから。だから、きっと悲しい事なんだよ。」
 トゥールは、一生懸命幼い頭を回転させた。
「それに、忘れられたら、もっと悲しいよ。だって、生きてた事が忘れられたらいなかったことになるから。 サーシャのお母さんの生きてたのがなくなっちゃうから。思い出の中でも、会えなくなっちゃうから。 …もっと、サーシャの側にいられなくなるから、悲しいんだよ。 …だから、泣いても良いと思うよ。」
 トゥールがそう言うと、サーシャの目から小さな涙がこぼれた。
「…かあ、さん…、母さん…母さん…、寂しいよ、会いたい、会いたい…あい、たい、よ…。」

 小さな悲鳴のようなささやかな声。わずかにこぼれる小さな涙。二粒、三粒。
「…母さん、母さん、母さん…、もっと撫でて欲しかったよ、もっと、抱っこして欲しかったのに、かあさん…。」
 あまりにもささやかに泣く、その様子があんまり苦しそうで、トゥールはサーシャを抱きしめた。
「もっと泣いてよ、サーシャ。…僕が、一緒にいるから。僕も父さんがいなくなって、悲しかったから、分かる。 だから、僕が一緒にいるから、 ずっとずっと一緒にいるから、いなくならないから。どこにもいかないから。だから、寂しくないよ。」
 体中に、じん、と快感が走る。溶けるようなその感覚に、サーシャは顔をあげる。
「泣いて、たくさん泣いて、いっぱい泣いて、お母さんのこと、たくさん覚えて、それからいろんなことしよう、 一緒に。ずっと側にいるから、寂しくないよ、大丈夫だよ。」
 サーシャはトゥールの胸をつかみ、小さく頷いた。
 …そして、その腕を振り払い、サーシャはトゥールを崖へと突き飛ばした。
「うわぁ!!」
 手が岩に触れ、とっさにそれにしがみつく。小さな足場で足を突っ張らせるが、長く持ちそうにない。
「さ、サーシャ?」
 そう叫ぶトゥールを、どこか無表情で見下ろすサーシャ。そして、一瞬の後、突然大声で泣き始めた。
 それは、まるで産声のようで。こんな時なのに、なぜかサーシャは 一生懸命生きているのだと思った。トゥールは生まれて初めて、誰かに『命』を感じた。
 サーシャが泣きながら蔦を投げてくれるまで、トゥールはその姿に見とれていたのだった。



「…ル?トゥール?トゥール?」
 ぼやけた視線が、段々クリアになっていく。
「…ないてる?サーシャ…?」
 こちらをのぞきこむ顔は、あの日の幼い顔ではなく、今のサーシャだった。
「…良かった…、間に合ったのね…。」
 そういうサーシャの顔は、心配そうにしていたけれど、泣いてはなかった。
(そう言えば、サーシャが泣いたのって、ものすごく久しぶりに見たなぁ…。)
 テドンのことを思いだしていると、そのもう一つの声が横からささやかに聞こえた。
「…トゥール?トゥール?大丈夫なの?もう平気?」
 リュシアの涙声に、ようやくトゥールが過去から引き起こされる。
「…うん、ちょっと頭がぼんやりしてるけど…って、僕、どうなったの?」
「落とし穴から落ちて、後頭部ぶつけて頭ぱっくり割れて死ぬ勇者なんて前代未聞だぜ?」
 からかうようなセイの言葉も、どこか力なく、いたわりがあった。
「…そうか、そうだっけ、僕モンスターに落とされたんだっけ…、ってもしかして、僕走馬燈見てたのか?」
 トゥールはがばりと起き上がり、少し上半身をふらつかせる。
「死にかけてた事は確かよ?…もう、魔力ほとんど空になっちゃったわ。でも、無事で良かった。」
「トゥール!」
 リュシアが涙目で抱き付いてきた。
「トゥール、トゥール、トゥール!なんともない?平気?」
「大丈夫、ごめん。」
 ふと足元を見ると、おびただしく広がった血の痕。そうとうまずい状態だったのだなと反省した。
「…馬鹿トゥール、どれだけ心配したと…。」
「うん、ごめん。皆も無事で良かった。」
「ま、お手柄って言っちゃお手柄だけどな。」
 セイはトゥールに丸い円盤を手渡す。それは鏡だった。


 緑の中に、美しく透き通る青い石。そして不思議な文字。
「…これ…。」
「お前が倒れてる間、暇だったからな、ちょっと捜索してた。あんま広くなかったしな、すぐ見つかったぞ。」
 両手で抱えるほどの、真円の鏡。中には少し青白い自分の顔が映っていた。
「…僕の顔だ…普通の鏡だね。」
「…ねぇ、トゥール。ちょっと貸してくれるかしら?」
「いいよ?」
 はい、と気軽に渡すトゥールに対して、サーシャは緊張の面持ちで受け取る。
「………私の、顔よね…。」
 それは紛れもなくいつもと同じ、サーシャの顔だった。すぐ後ろから、リュシアも顔を覗かせる。
「普通の鏡。」
「俺が映しても変わらなかったからなぁ。本当にラーの鏡とやらなんだろうなぁ。大体本物ならなんだって 壊しもしないでここに置いて置いたんだか。」
「それは、壊してしまうと変化の杖も使えなくなるからだわ。ラーの鏡、変化の杖、ガイアの剣で一つの宝だから。」
 サーシャがするっと口にして、三人が驚いた面持ちでサーシャを見る。トゥールは少し考えて、話を促した。
「…いや、サーシャ、続けて。」
「あ、えーと、ラーの鏡は空、特に太陽の象徴なの。空から全てを見通す、嘘偽りも隠せない鏡。 変化の杖は、刻一刻と姿を変える海の象徴。ガイアの剣は静かに皆を包み、導く大地。 これを失わせるには、三つ一度に壊すか、変化の杖なら海に、ガイアの剣なら大地に返すしかないんだけど…ラーの鏡は 空だから、難しいの。だから壊すことも出来ずに、ここに仕舞いこんだんじゃないかしら。」
 もうさすがに、なぜこんなことを知っているとは聞く気にはなれなかった。サーシャも自らに呆れた様子で、苦笑いする。
「便利よね、商人がいるようで、いいじゃない。とりあえずこれは間違いなく本物よ。」
 その開き直りように、セイが笑う。
「あー、便利だな。ま、それは何よりだ。」
「そう言えば、商人で思いだしたけど、そろそろギーツ見に行ったほうがいいかもね。」
 トゥールの言葉に、リュシアがものすごく嫌そうな顔をした。
「リュシアってば…、いいじゃない、胸を張って立派な両親が見つかったって自慢したらいいのよ。ワットさんの 所にも近いし、ちょうど良いかもね。…その前にサマンオサのことを片付けてからね。」
「…夜まで、寝たほうが良いの。トゥールも、サーシャも。…リュシアもちょっと疲れた。」
「俺はそれほど疲れてないからな。一度地下牢に忍び込んであの王様に進入ルートがないか聞いてくる。」
「じゃあ、帰ろう。一度ぐっすり眠りたいな。」
 トゥールは笑って、呪文を唱えた。



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