いったいなぜだったのだろうか。もう理由は思い出せない。
 水を床にこぼしてしまったのだっただろうか。それとも戸に傷をつけてしまったのだったか。
 わからないけれど、目の前の母は、狂ったように自分を殴りつけている。
「お前が!お前が生まれてきたから!!」
「…かあ、さん…。」
「あんたなんて鬼の子よ!私の子じゃないわ!!どうして!どうして私の胎を借りて生まれてきたの!!お前のせいで!!」
 思い切り床にたたきつけられ、頭が揺れる。
「この!この!」
 さらに足で踏みつけられ、それでも母をじっと見た。
 …殴られるのは、もう慣れてしまった。痛いけれど、苦しいけれど。…本当に痛くて苦しいのはそこじゃないから。
「…うるさいな!!」
 戸が開き、父が怒鳴り込んできた。
「あなたぁ!この子は私の子じゃないのよ!!私は知らないわ!鬼の子なのよ!!」
 いつものとおり、母は父にすがり付いて泣き出した。
 その甲高い声を聞いて、腹の中から熱いものがこみ上げてくる。なんとか土間までたどり着き、腹の中の物を吐き出した。
「…汚い子供だ。こんなものが私の子供であるものか!出て行け!!」
 すがりつく母を振り払い、父は幼い流星を家から蹴りだす。
「違うの!あなた!!」
「違うものか!お前が不貞を働いた結果がこれだ!神々がお前の罪をあいつに証明させたのだ!!」
 母が殴られる音が聞こえる。…昔は何度か止めに入ったが、そうすると余計に母が殴られることを知っていて、リュウセイは ただよろよろと家から離れ、近くの木の前で胃の中の物を吐き出した。

「お兄ちゃん…?」
 弥生が近寄ってきた。おそらく父と一緒に帰ってきて、家の中の音を聞いて外で待っていろといわれたんだろう。
「…大丈夫。ちょっとぶつけて気持ち悪かったから。」
 心配そうな目をして見ている妹は、自分が唯一まともに話せる相手だった。両親からあまりほかの人間の前に姿を 現すなと言われていたし、たいていの人は自分の姿を見ると目を伏せて逃げていくから。
 どこまでわかっているかわからない、この妹が自分を人間だと見てくれる唯一の存在だった。
「…お水もってくるね、お兄ちゃん。」
 振り向く後姿は、自分とは似ても似つかない黒い髪。…あれが、あれば良かったのに。
 もらった水を飲み、ようやく落ち着いた。家から漏れ聞こえるかすかな高い声を無理やりに排除して、流星は立ち上がった。
「大丈夫?お兄ちゃん。」
「うん。…父さんと母さんは大事な話をしているから、一緒に遊びに行こう。」
「いいの?」
「いいんだよ、ほら、紫草を見に行こう。今ならきっと綺麗に咲いてるよ。」

 村の北側のはずれ。今は誰もいない草原に、白い花が敷き詰められるかのように咲いていた。
 …白の色。自分の髪と同じ色。
「うわぁ、綺麗だね、お兄ちゃん!弥生、紫草大好き!」
 嬉しそうに草原を駆け回る弥生を見ていると、少しだけ気持ちが上を向ける気がした。
 二人は、白が赤い色に染まるまで、ずっとその草原で駆け回っていた。


 かすかに聞こえたきぃという音に、流星は飛び上がった。
「…なんだ、弥生か。」
 流星はほっとして、持っていた物をつぼの奥深くに置いた。
 村のはずれの、今はほとんど使われていない倉庫。ここに来るのは自分と弥生くらいだとは分かっていても、心やましい 自分には心臓が飛び上がるほど驚いた。
「…おにいちゃん、どうしたの?」
「なんでもないよ、弥生。」
「…なんでもなくない、お兄ちゃん、最近ちょっとおかしいから…。」
 弥生の言葉に、流星は視線をそらした。
 父も母も、この国もずっと変わらない。…そんな中、自分が求めたのは大陸の向こうの教会にいるという、本当の父だった。
 会いたい。話を聞きたい。本当に自分の父なのか。…そして、できれば…。
 でも、それは難しい話だった。四方を海に囲まれたこの国から、自分が出る手段はない。もっともっと大きくならないと無理だと、 そう思っていたときだった。
 噂を聞いた。若い夫婦が自分の腕を試すために、船に乗ってこの国を出ると。
 みな愚かだと笑うけれど、もしその船に忍び込めたら…。
 いつかは分からない。それでも毎日少しずつ旅立ちの物をここに隠しつつ、船の様子を伺っているのだった。
 やがて、小さな船は作られ、おそらく出発はまもなくだろうと、流星は考えていた。
「…なんでもないよ。」
「弥生が、弥生が、髪の毛、黒いから?だからおにいちゃん、何にも話してくれないの?」
 たった一人心配してくれた妹。…妬んだことがないと言えば嘘になる。…それでもこの国を出るにあたって、弥生のことだけが心配 だった。
 それでも言うわけには行かない。幼い妹がうまく隠しとおせるとは限らないのだから。
「違うよ、…誰かほかの人だと思っただけなんだ。ほら、そろそろ帰ったほうがいいよ。僕に会ってることが 分かったら、父さんと母さんに怒られるから。」
「お兄ちゃんとは、兄妹なのに…怒られるなんて、おかしいよ…。」
 純粋に慕ってくれる妹の頭を、流星はそっと撫でた。

「まったくどいつもこいつも、罰当たりだ!!大和を守る神々の恩恵をどう思っているのだ!明日の朝には出て行くやつはいるし、 もう大和の国もおしまいだ!!」
 流星を殴りながら、父がそういったとき、流星は地に伏せた自分の目が輝いたのを自覚した。
 皆が寝静まったあと、流星はそっと家を抜け出し、荷物を取りに行った。
 まとめてあった衣服などを手に取り…少し考えて中から筆を手にした。
 いなくなって泣くであろう妹のために、自分の思いを残そうと考え…今までやったことがない作業に手間取ったが、なんとか ひねり出し、そっとつぼの中に入れた。
 ”うつせみの 妹泣く声ぞ 耳に聞く 露の落ちたる 川の流れよ”
 いつも、どこにいても、その泣き声は聞こえているし、その涙はやがて川になって自分に届くと。…だから泣かないでと 幼い頭でそう考えた。
 そしてそっと船に忍び込み、荷物と荷物の間にもぐりこんで…まもなくゆっくりと眠りに落ちていった。



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