けして消えない罪があると思った。 それは遠い昔だった。兄と二人、教団に入ったのは。 父が死に、母までも死に、兄と二人で路頭に迷っているときに、声をかけられた。 ”やがてこの世界は闇に包まれ、滅ぶであろう。だが、光の教えを信じる私たちだけは生き残り、 世界を正しき世界に再生するのです。その日のため、私たちは光の教えを広め、神が宿り、私たちが祈るための 場所を作り上げましょう…” それは希望だと思えた。すばらしい、信じるべき教えだと。自分が教えを広めることで、多くの 人々を救うことができるのだから。そして教えを信じない愚かな人たちが滅んでしまえば、そこから すばらしい楽園を築きあげることができるのだから。 …考えもしなかったのだ。その『すばらしい』教えの下に『滅ぶべき』人たちの犠牲があることなんて。 だから罰を与えられたのだと思った。教祖様の皿を割り、『滅ぶべき』人たちとともに、奴隷になっても、 それは罰なのだと思った。 「かわいそうね、マリアちゃん。ついこの間までは、教徒だったのに。」 「お兄さんが兵士だって言うのに、どうしてマリアさんだけ奴隷に…でもマリアさんはとてもいい人ね。」 そう、賞賛が与えられるたびに、申し訳なくて、悲しくて・・・涙を流したくなった。 (違うんです、私は…貴方たちに鞭を打っていたのです…) たとえ鞭を持ったことがなくても、同じことだと思えた。ずっとこの人たちを迫害してきた。…教えを信じない 人など、自分だって同じ人間だなんて考えもしなかったのだから。 なのに、みんな優しかった。自分を責めもしなかった。かわいそうだと同情してくれて、優しくしてくれた。 …とてもとても嬉しくて、やっぱり泣きたくなった。 こんなに優しい人たちを、私は踏みにじっていたのだから。 鞭で打たれ殴られたときも、痛くなんかなかった。それが当然だと感じた。なのに…助けられてしまった。 優しい人たちに。 私は手当てをされ、なにやら薄暗い部屋にしばらく留め置かれた。 「ごめんなさい…」 申し訳なかった。私を助けに来てくれた人たちは、牢に入れられたと聞いた。…私などのために傷つけてしまった。 それがまた申し訳なくて、泣きたくなった。 扉が開き、兄が入ってきた。 「マリア聞いてくれ…お前をここから逃がそうと思う。」 「兄さん!だめです!そんな!」 首を振った。そんなことは許されないと思った。自分はここで死んでしまったほうがいい。いや、そうあるべきだと 思えたのに。 「お前をこんなところに置いておきたくないんだ。よく聞いてくれ、お前を助けてくれたあの二人に、お前を 託そうと思う。あの二人は兵士の間でも評判で…なにより他の奴隷とは違う。きっと、なんとかしてくれるだろう。」 「兄さんは…?」 兄は首を振った。 「いけないんだ、兄さんは。…お前が奴隷になって考えたんだ。ここから逃げ出す方法を。…生きているものは決してここから 出られない。…けど、死体なら別だ。ここは奴隷の墓を作らない。…作る価値がないと教えている。だから奴隷が 死んだら樽に海に流すんだ。その最中で…死んでしまうかもしれない。だが、可能性にかけてみたいと思った。あの 二人のおかげで。」 もう一度首を振った。自分は逃げることなんて、望んでいなかったから。だが、兄の意思は固かった。 「兄さんはいけない。樽を流す装置の操作をしなくちゃいけないから。…だから、マリア。お前は代わりに逃げてくれ。 …そして、この教団の犠牲者が一人でも減るように、外で祈ってくれ。兄さんからの、最後の願いだ。…頼む。」 …分かってしまった。兄は、死ぬつもりだと。そしてそれは自分と同じ『贖罪』のためだと、分かってしまった。 だから、ただ頷いた。それが、妹として兄にできる最後の事だと思った。 そうして樽に入り、滝を越え、海を越えて…いつのまにか気を失っていた。 「マリアさん、大丈夫か?」 眼がさめると、柔らかなベッドの上だった。そして、目の前に見慣れた顔があった。樽の中でずっと 一緒だった人だ。 「ヘンリーさん…」 「良かった。ずっと目がさめないから心配したよ。ここは海辺の修道院。三人ともなんとか生きてるみたいだな。」 「まぁ、修道院…そうでしたか…。ヘンリーさん、ご加減のほうは?」 「ピンピンしてるよ。マリアさんはどこか痛いところとかある?」 「いいえ、大丈夫ですわ…では…」 周りを見渡した。他には誰もいなかった。 「あの…カルアさんは…?」 樽の中のもう一人。ヘンリーさんの友達。…不思議な眼をもっている青年だった。 ヘンリーは、少し複雑な表情をした。 「あいつも生きてるよ。…ただ、まだ眼を覚まさないんだ。まぁ、心配はいらないさ。俺ら、体だけは鍛えてるから。」 「そんな…」 思い出した。あの神殿から海につながる道は、巨大な滝であったと。…そして、海面にたたきつけられるその衝撃を、誰かが 受け止めてくれたことを… あれは、カルアだったのだ。そして、自分のせいで苦しんでいる。急いで体を起こした。 「今すぐ、行って差し上げてください。私は大丈夫ですから…」 「でもマリアさん、急に動かないほうがいい。今、人を呼んでくるからそれまで大人しく座っててくれよ?」 「はい、お約束します。ヘンリーさんも、ご無理はしないでくださいね。」 ヘンリーの背中を見送って、目を閉じた。もしも、カルアさんが眼をあけなかったら。もしも、 このまま…そう考えるとぞっとした。体を抱きしめても、震えが止まらない。涙がこぼれた。 「どうか…なさいましたか?」 扉が開き、部屋に入って来たのは初老の女性だった。全身を紺の布で覆った、修道女の方だった。 そして…とても安らいだ雰囲気をもっている方だった。 「どうかなさいましたか?」 知らず涙が出ていた。その女性はあまりにも心癒す空気をもっていたから。 「私は…罪を犯しました。他人を虐げ、人を苦しみ、自分だけが享楽の極みにおりました。人の犠牲を知らず、 高みに上り、甘言を疑わずに生きておりました。…そして、また自分だけがこうして人に助けられ、 苦しき人と遠くはなれたところにいます。…それは、紛れもない罪です…。」 「人は、誰もが罪を持って生まれます。罪をもって生きます。命をいただき、生きていくことが人々に 与えられた罪なのです。」 その声は厳かだった。小さく、静かな声が、胸に入り込んで来た。 「人は必ず罪を抱えます…だからこそ、人は罪を償うことができます。…人に愛情を与えることができます。 自らの罪を知っているものだけが、誰かの罪を許すことができるのです。」 「私に、できることがあるのでしょうか。…私は許されることができるのでしょうか…」 信じられなかった。光の教えは、真っ白なものしか救ってくれない。…光の教えを信じ、その教えに 則り、踏み外したことのないものだけが救われる。ずっとそう信じてきた。 「必ず救われますとも。…間違っても自らを省みる心があれば。」 そういう修道女はとても尊くて、まぶしくて…また、涙を流した。 そうして、マリアはここで働き始めた。手伝えることは何でもして、聖書を読んだ。 その教えはすばらしかった。今まで教わってきたことが、どれほど誰かに都合よく作られたものか実感するほどに。 「神はいつでも見守ってくださっています。教えを知っている方も、知らない方も、平等に愛しておられます。 私たちは道に迷った人たちに、少しだけ灯りを差しかける存在であろうと頑張っているのですよ。」 あの時マリアを慰めた修道院長が、マリアに優しくそう言ってくれた。 「私にも、できるでしょうか…私も、何かしたいのです。ここへ、入ることを許しては下さらないでしょうか?」 祭壇の前で、マリアは修道院長にそう訴えた。 マリアは無性に何かがしたかった。日々を安穏と暮らしたくはなかった。 祈りたかった。兄のため、今まで虐げてきたたくさんの人のため、今も苦しんでいる奴隷仲間たちのため、 マリアはただひたすら祈りたかった。 そして、ここにたどり着いたと知ったとき、これが神から与えられた運命だと思えた。あなたはここで、 平和のために祈りなさいと、道を指し示してもらったような気がしていた。 「あせってはいけません。心を閉じ込めてもいけません。広い心をお持ちなさい。…自らを省みて、 神を信じることができるのなら、私たちはいつでも歓迎するのですから。」 「はい。」 マリアは一礼をして、祭壇から離れた。まだ目覚めないカルアの看病をしようと部屋へ向かった。 「マリアさん。…見違えたよ。よく似合うな。」 途中の廊下でヘンリーに出会った。そう言われてマリアは首をかしげる。 「そうですか?お恥ずかしいです。」 マリアは僧服を着ていた。修道女の服を借り受けたのだ。ただ、ヘンリーは、 「ヘンリーさんには申し訳ないですわ…いまだに…あのときの服ですもの…」 「ここには男の服がないだろうしな。マリアさんだけでもちゃんとした服が着られて良かったよ。 そっちのほうが、ずっといい。とても綺麗だよ。」 「いいえ、私はまだまだですわ。…皆様本当によく神に使えていらっしゃって、本当によく似合ってらっしゃいますもの…」 そういうと、ヘンリーは少しばつの悪そうな顔をした。 (そういうことじゃ、ないんだけどな。) 初めて、こぎれいにしたマリアを見たとき、とても驚いたのだ。陽に透ける金の髪もまっすぐに立った背筋もとても綺麗で。 昔あれほど着飾った貴婦人を見たというのに、これほど綺麗な人を初めてみたと、感動したのだ。 「カルアさんは…まだ…?」 マリアにそう言われ、ヘンリーはいつもの笑みを浮かべる。 「あ、ああ。寝息は安らかだし、すぐ眼がさめるよ。お見舞いにいくの?」 「はい、お邪魔でなければ、交代したいと思います。」 「邪魔なんて、そんなことないよ。」 「そうならいいのですけれど…では、失礼しますね、ヘンリーさん。」 ぺこりと頭を下げてマリアがカルアの部屋へ去っていく。 「いいよな、カルアは。マリアさんに看病してもらえて…」 ぼそりとつぶやいた独り言は、誰にも…ヘンリーの耳にも聞こえてはいなかった。 修道女と交代して、マリアはベッドの隣のいすについた。 黒い髪、丹精な顔立ちの青年がベッドで眠っている。寝息は安らかで、マリアは一息ついた。 実のところ、マリアはカルアが苦手だった。嫌いではない、ただとても苦手だった。 良い人だと思う。兄が信頼したことも納得がいく、とても誠実な人で、短時間近くで働いただけだったけれど、 その優しさが伝わってきた。奴隷の中でもヘンリーとカルアは一番人気を競り合っていたくらいだった。 とても優しくて、誠実で…だから居たたまれなくなるのだ、この人の目を見ていると。 その眼は涼やかで、まっすぐで、純粋で…こんな人まで虐げてきたのだと思う。…罪を全て見通しているようで、 どうしてもまっすぐ眼を見ることができなかった。悪くないよと、言ってくれてるようで、申し訳なくて。 けれど今は眼を閉じていて。初めてまっすぐ見ることができた。 よく見ると、あちこちに傷ができていた。…みみずばれだった。…自分にもある傷だが、その大きさは数倍で、肩や 首にまで広がっていた。 (…この傷は、私がつけた傷。私が傷つけた証。) 逃れられない罪の象徴がここにあるような気がした。カルアは決して自分を責めないだろう。…だから、 自分自身が責めるしかなかった。 マリアはそっと眠るカルアの手を取り、自らの頬に当てた。 「ごめんなさい…ごめんなさい…」 その手は暖かくて、たくましくて。…また涙がこぼれた。 「ごめんなさい…」 眠るカルアに、ただ泣きながら謝り続けた。自己満足とは分かっていたけれど。…本当はずっとやりたかった ことだった。 そして、部屋の外で。 「まいったな…」 緑の髪をかきむしるヘンリーが、そっと扉から離れた。 |
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