刺繍


「あったわ、これにしましょう」
 フローラは今、倉庫にいた。倉庫の中でも上等の布がたくさんあるところである。色とりどりの 布が溢れる中で、フローラは真珠のような光沢のある真っ白の大きな、最上級の布を手に取った。 その布を自室に運ぶ。
「じゃあ次は、糸を選びましょう。」

 ここは南国の町、サラボナ。フローラはその町一番のお金持ちの娘だ。フローラは今、恋をしていた。 そしてそれは既に終わった恋だった。
 とてもとても好きな人だった。一目ぼれだった。見た瞬間から、ドキドキした。
 しかしその人は、別の誰かを選んだ。そうしたのは自分だ。好きだから判った。 その人は隣の金色に輝く女性が好きなのだと。
 このままなら自分と結婚してくれるかもしれない、そう一瞬思った。そんな自分が嫌だった。だからこの結果に 後悔はない。
 その人が選んだ女性の名はビアンカと言った。美しく優しい女性だった。その上、とても楽しい人だった。 あの人がその女性を選んだあと、ビアンカの結婚のしたくを手伝った。

「ごめんなさい、フローラさん…私は本当に貴方との結婚を応援するつもりだったのに、 こんな事になってしまって…」
「いいんですわ。私はあの方がなさりたい方と結婚して欲しいですし、それに私と結婚して後悔なさるのは嫌ですもの。」
「ふふ、でもそうね、フローラさんみたいな綺麗な人を袖にして、きっと今ごろあいつ、後悔でのた打ち回ってるわよ。」
 フローラは微笑んだ。そしてくすくす笑いながら言った。
「そんな事ありませんわ。きっとビアンカさんのその姿を見たら何も言えなくなるに決まってますもの。」
 ビアンカのウエディングドレス姿は本当に素晴らしかった。まるで光の女神のようだった。
「そんな事ないわ。きっとフローラさんの方がお似合いだったに違いないわ。このドレスも、元々フローラさんの 物なのに…」
 ビアンカはそう言ってうつむく。とても申し訳なさそうだった。
「お気になさらないで下さい。それよりビアンカさん。もしよければ私と友達になってくださいませんか? ここには同年代の女性がいないので。私ビアンカさんとお友達になれるんでしたら、きっと 何も惜しくありませんもの。」
 フローラはそう言った。本心だった。恋敵であったにもかかわらず、ビアンカは本当に魅力的な女性だった。
「私でいいんだったらよろこんで。ふふ、あいつがびっくりするくらい、仲良くしましょ。」
「ええ、あの方をほって、二人でお茶を飲むくらい、仲良くしてください。」
 そう言って二人で笑いあった。だから、こうなってよかったと思う。

 そして倉庫の奥にきていた。ここは布の何倍もの糸で溢れていた。色の洪水に呑まれながら、 フローラは今の自分の気持ちにぴったりの糸を捜していた。

 結婚式はもっと素晴らしかった。ベールをかぶり、ウエディングドレスを纏い、頬を紅く染めて歩くビアンカ。
 それをエスコートする、正装をした、黒髪のりりしい顔の美青年。
 美しい教会で、二人で並び神聖な式をする姿はまさに、神話の絵のようだった。素晴らしかった。 ビアンカの金髪と青年の黒髪が、まるで神が定めた対の人間の象徴のようだった。

 けれど、痛みは消えないのだ。心から納得しているのに、目の奥にあの人が離れないのだ。フローラは 結局想いを自分から告げることもできなかった。だからだろうか。いつまでも吐き出す事のできない思いが 胸の中で燻るのだ。このままではその想いの熱さに焼かれて死んでしまいそうだった。

 フローラの目の前に金の糸があった。その色はまるでビアンカの髪の色だった。フローラは手に取った。
「もう一つ、欲しいかしら?けれど…」
 白の布に金と黒の糸を使うには難しかった。それになんとなくそういう気分ではなかった。 だから横のある銀の糸を取った。これも対であろう。
 その二つをじっと見て、イメージ、品質にも満足したか、フローラは倉庫から出て行き、自室に戻った。

 刺繍は昔から得意だった。昔、父と母が本当の親じゃないと知った時も、 フローラは刺繍をふんだんに使ったテーブルクロスを作って父母にあげた。喜んでくれて、嬉しかった。 修道院に行ってからは、布にたくさんの刺繍をして、恵まれない子供にあげるようになった。それが嬉しかった。 自分のしたことを喜んでくれる事が。
 けれど今日は誰かの為じゃなく自分のために刺繍がしたかった。あの人への想いを吐き出す為に。 この布に、あの人への想いを全て託す為に。金銀の糸で、あの人への、愛する心を 全て表現しよう、フローラはそう思った。

 そうしてフローラは金銀の糸をふんだんに使い、真珠の布に綺麗な2匹の鳥たちを描いた。それはあの人への想い。 吐き出さなければいけない、自分の気持ち。

 フローラは結婚式でも、二人を送り出すときも泣きはしなかった。祝福する気持ちは本当だったし、自分が泣いてしまっては、 きっと心優しいあの人たちは罪悪感を抱いてしまうだろう。そんな自分になりたくなかった。いつでも神へ向かうような、 凛とした自分を最後まであの人に見せていたかった。心からの笑顔で「おめでとう」と言えた自分を今でも誇らしく思う。
 だけれど、泣けないのは辛い。心から刺が出ていかない。だからこの布の刺繍が全部終わった時に、 フローラは決めていた。この布を抱きしめて、声をあげて泣こうと。そしてその時こそ、この恋にさようなら が言える時だと、フローラは思っていた。

 フローラは寝食を惜しんでまで、刺繍をした。その布はとても大きくて、刺繍をしてもまだまだ終わりそうになかった。 けれど刺繍をしてるときだけ、心が休まった。ただひたすら、気持ちをその布にぶつけていればいいから。
 父や母の前では平気なふりをしていた。幸せそうな顔をしなければ、心配させてしまうから。フローラは 実でもない娘を心から可愛がってくれる、父母が大好きだったから、心配させたくなかった。
 だけど、この布の前では自分の気持ちを偽らなくていい。その布にその気持ちを隠さなくてもいい。それだけで 心が休まった。まだ、気持ちは燻るけれど。胸は痛むけれど。あの人を想って眠れぬ夜はなくなった。

 それは布が半分くらい埋まった頃だろうか?ある夜、刺繍の手を休め、 一息ついて窓から空を見ていた。月がとても綺麗だった。そこに夜の歌声のような美しい音色が聞こえてきた。 フローラは布を持ちながら、窓に近づいた。そこから下をのぞこうとして、やめた。ずっと聞いていたかったから。 覗いてしまって、このメロディが聞こえなくなるのが嫌だったから。ずっとこのままで いたかったから。フローラは椅子に座りなおした。
 美しく、ほっと安心する。頭をゆっくり撫ぜられているような、そんな気がした。 その音色を聞きながら、またフローラは刺繍を再開した。
 心の痛みが和らいだような気がした。

 それ以来、毎晩その笛の音色がした。フローラは毎晩その音色を楽しみにしていた。その音色を聞きながらする刺繍は、 より美しく思えた。白い布に、どんどん蝶が舞い、金銀の花が埋まっていく。
 フローラはその笛の音の持ち主が誰だかわかっていた。 その音には聞き覚えがあった。その人は自分を一番思っていてくれる人。 自分のために怪我をしてくれた。だけど…看病する事しかできなくて。看病していても、 心はあの人に焦がれていた。それが申し訳なかった。
 この笛の音を聞くととても落ち着く。安らかになる。だけどあの人のような想いはないのだ。ドキドキしない。胸が 壊れそうになるほど、切なくならない。

 刺繍は続いた。そろそろ残り少なくなっていた。フローラはあの時以来、アンディには逢わなかった。アンディにも仕事があるし、 自分は家の手伝いと、刺繍に忙しかったから。
 アンディは元気でいるのだろう。あの繊細な指が、やけどに負けなくて良かったと思う。そうでなければこの美しい音色が聞けなかった。 心がこんなに安らぐ事がなかった。刺繍をしながらそう思う。…この布で刺繍をしながらフローラは、アンディの 事を考えていたのだ。その事に気がついて、フローラはびっくりした。そして想う。違う、これは恋ではないと。 だってあの人みたいにどきどきしない。心が苦しくなったりしない。ただ、安心するだけ。
「でも…あの時、水の指輪を取りに行くあの人を見送らず、アンディの看病をしていたのは、何故なのかしら…?」

 そして刺繍が終わる、最後の夜。最後の一針は、音色のはじまりと同じだった。フローラはその布を握り締めた。
 やっと、終わった。そうして深く深呼吸をする。そして自分は泣くはずだった。あの人を想って。
 だけど自分は泣かなかった。ずっと心の傷をゆっくり癒されてきていたから。そして、次の瞬間、 その布を握り締めて、外へ駆け出した。そうして、音のする所へ行く。
「アンディ!」
 広場の近くの木の下に、アンディはいた。自分の部屋の窓がわずかに見える。白い大きな布を持って走ってくる フローラに、アンディは驚きながら、笛を吹くのをやめ、フローラの方を見た。
「フローラ!どうしたんだい!」
「アンディ…こんな所で…なにしてるの?」
「それは僕の台詞だよ、フローラ。こんな時間にどうしたんだい?しかもその大きな布は…」
 フローラは、その布を握り締めている事に気がつかなかった。慌てて汚れていないか確認する。 どうやら運良く引きずりはしなかったようだ。慌てて確認するフローラに、アンディは言った。
「大切な、布なの?」
「これはあの人への想いだったの…あの人を想いながら、刺繍をするつもりだったの」
 そのフローラの言葉を聞いて、アンディは少しだけ顔を悲しく歪めた。しかしそのあと微笑んで、 その布を手に取ると、ふわっとフローラに纏わせた。
「ここは南国でも夜は冷えるから、纏っていた方がいいよ。…大切なものかもしれないけど。」
「違うの!アンディ。私最近、この刺繍をしながらずっと貴方のこと考えてた。貴方のその笛の音色をずっと楽しみに してたの!私…私…。判ったの。あの人みたいにドキドキする恋じゃないけど、けれど、私、 貴方といると心が安らぐの。ほっとするの!私きっと貴方のその笛を遠くから 聞いてるだけじゃ、嫌…。ずっと、ずっと昔から…」
 一気にそういう。そして最後の一言を言おうとした。その言葉はアンディの胸に止められた。アンディはそっと フローラを抱き寄せたのだ。
「フローラ…僕は、君が好きだ。ずっと前から。今も好きだ。その布ごと、君のその想いごと、僕は君が好きなんだ。 僕と結婚してください。」
「はい…はい、アンディ。喜んで。」
 そういうと胸の中でフローラは声を立てて泣き出した。アンディはずっとフローラを抱きしめていた。
 さよなら、あの人。さよならあの人への想い。そんな想いが涙とともに溢れ出す。そして嬉しくて、 あの人が好きだと言う気持ちごと受け止めてくれる、アンディの気持ちが嬉しくて。フローラは声が嗄れるまで、泣いた。

 フローラはベールをかぶってブーケを持っていた。そしてドレスは、真珠のような光沢と、金と銀の華やかな刺繍で 彩られていた。
 この布をドレスにして欲しい、というのはアンディの願いだった。それでかまわないの?と聞くとアンディは言った。
「僕はそのドレスごと、その布ごと、君を花嫁に貰いたいから。それにきっとその布が一番綺麗に君を 魅せてくれると思うから。」
 アンディは幸せそうにそう言った。
 結婚式にきて欲しい人は来てくれなかった。初恋の人と、大切な友人。あの人達は今ごろどうしているだろう。幸せで いてくれるだろうか?いつかまたこの街に来てくれるだろうか?そうしたら見せたい。幸せな 自分と、このドレスを。

「貴方は健やかなる時も、病める時も…」


 


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