月光


 子供の頃は夜が怖かった。
 自分の家が、お屋敷めいた古く大きな家だったからだろう。夜になるとお化けが出そうで、少し泣き出しそうだった 事を覚えている。ごく幼い頃は夜自分の部屋に一人で行く事さえできなくて、母親に笑われていた。
 そんな自分が、夜が怖くなった時の事を思い出す。幼い頃の大冒険。「もう、夜なんか怖くないんだから、 お化けなんて怖くないんだから」そう思って猫を助けるために、古城への向かったあの日の事。
 本当は怖かった。だから一人では行けなくて、偉そうに一緒に行くように言いつけた。
 少年は「いいのかな?」「お父さんに怒られちゃう」そんな事を言いながら、それでもついて来てくれた。 最初はその躊躇ぶりに、少年も怖いのだと思っていた。
 外に出る。いつもと同じ町のはずなのに、なんだかとてもおどろおどろしく感じて、逃げ出したくなった。年上の プライドとばかりに平気なふりをしていたけれど、本当は少しだけ泣きそうだった。
 なのに少年はこう言った。
「綺麗な月だね、ビアンカ」
 空を見上げた。そこにはいつものように自分を照らす月の光。澄んだ空に月はとても綺麗で。怖い気持ちが 薄らいだのを覚えている。
 夜が怖くなくなったのは、その瞬間だった。それから古城での冒険は怖い事もあったけれど、立派にやり遂げられて 少し大人になれた気がした。


 それから夜は、あの大冒険を思い出すとても親しい友にもなった。行方不明になってしまった少年とその父親を 思い出し、必ず生きているのだと願う…そんな大切な時間になったのだ。
(あの小さな少年が、あんな立派な青年になって帰ってくるなんて、ね)
 細面は「優男」というイメージで、立派な年輪を顔に刻んでいた父親の面影はあまりなかったけれど。そのたくましい 体躯と優しく落ち着いた態度は、まさしく偉大な父親の息子だった。
(あの猫ちゃんは、あんなにおっきくなってたし。)
 お城のお嬢様だった自分から、山奥の隠居に引きこもっている自分に変わっても、青年の態度は変わらなかった。幼い頃を 知っている自分に会えて本当に嬉しいと感激していた。…語らなかったけれど、きっととても苦労をしてきたんだろう。
 昔からそうだったけれど無口で、話すのはあまりうまくない。ぎこちない言葉で父親の死を語ってくれた時、それになんとなく 気がついた。
 滝の洞窟について行きたいと思ったのは、幸せだったあの日に戻りたいと思ったからなのかもしれない。母もパパスも 生きていて、父も元気で、何の悩みもなかったあの幼い日々に戻れるようなそんな気がして。わがままを言った。 これを逃したらまた何年も会えないようなそんな予感がしていたから。


 冷たい月の光の下で思い直す。本当は違うのかもしれない。そんなの全部言い訳で、ただ結婚すると聞いて衝動的に ついて行っただけかもしれない。そうでなかったらどうして、サラボナまで足を運んで…どうしてフローラの 言葉を否定しきれず、この別荘にいるのだろう?あの時、強引にでも違います、と言いきって屋敷から 出る事だって…本当はできたはずなのに。
 ちょっと無口で。暖かな笑みとつめたい眼差しを向ける…幼い頃そのままの、そして幼い頃から変わってしまった あの人を、ずっとずっと見ていたいと…そう思ったからじゃないのか。
 ビアンカは銀色の櫛をとりあげ、月光の下で髪を梳き始めた。


 …そう、私はずっと待っている。

 そして、その時が来ない事をずっと、月に願っている。


 扉が開いてそこから月光が差し込んだ。
「あら、…なんだか大変なことになっちゃったわね。」
 入ってきたのは、立派な青年になった少年だった。自分が起きていた事に驚いたのだろう、少しだけ目を見開いた。 それから笑って、こちらに近づいてきた。
「…お疲れ様、大変だったでしょ?」
「…その、巻き込んでごめん。」
 なんて言おうか迷って迷って、その言葉を出したのだろう。そんな不器用な青年にビアンカは笑う。
「いいの、気にしないで。ややこしいことにしちゃってごめんなさい。でも悩むことないわ。 フローラさんと結婚した方がいいに決まってるじゃない。」
 ちゃんと笑みが作れていただろうか。ちゃんといつものように笑えていただろうか。
 だって私は、彼のお姉さんなんだから。いつものように笑わなければ駄目。
「私のことは心配しないで。今までだって一人でやってきたんだもの。」
 そうにっこりと微笑んで見せた。最高の笑みだった。

 彼は何も言わず、じっとこちらを見ていた。その緊張感が耐えられなくて、話題を変える。
「さぁ、もう疲れてるんだから眠った方がいいわよ。」
「…ビアンカは?」
 心配そうにいう彼に、私は微笑む。
「私はもう少しここで夜風にあたってるわ。なんだか眠れなくて……。」
「ビアンカ…」
 もう一度、彼はじっと私を見つめた。…ここで目をそらすわけにはいかなくて。苦しかったけれど ずっと笑っていた。
「ビアンカ。」
 もう一度、彼が口を開いた。
「何?」
「…ごめん。」


 ああ、やっぱり。
 無駄なことだと分かっていた。モンスターの心さえ理解してしまう彼が、私の心を理解できないなんてそんなはずはなかったのに。
 彼にとって私はお姉さんで、家族として大切に思ってくれていることは分かっていた。
 滝の洞窟で一度だけフローラさんの事を聞いた。少しずつだけれど話してくれた。
 犬を止めた時の控えめな笑み。最初は不思議だと思ったけれど、ずっと心に残っていた事。
 最初は結婚なんてできないと思ったけれど、話してみてそう言えなかったこと。なんとなく、 ずっと父が話してくれた母のイメージに似ていると感じた事。
 そして、人を看病しようと心配そうに見ていた横顔が、かつて一度だけ 見かけた初恋の人に似ていると、ぎこちない言葉で話してくれた。
 それがあんまりぎこちなくて、不器用だったから気がついてしまった。彼は、フローラさんが好きなのだと。

 だから、眠れなかった。だから、眠らなかった。
 優しい彼。できるだけ相手を傷つけたくないと願う人だから、もし私の気持ちに気がついて…そして フローラさんを選ぶつもりなら、必ずここに来て、先に断ってくれると思っていた。私に余計な期待をさせて、 傷つけないために。人前で苦しい想いをさせないために。
「ビアンカが悪いわけでも、ビアンカが嫌いなわけでもないんだ。でも…。」
 なんて言えば私が傷つかないか、彼はずっと考えている。それが悲しくて、私は彼の胸に飛び込んだ。

 何も言わなかった。ただ泣いている私を、彼はずっと撫でていた。まるで仲間のモンスターを撫でるのと同じように。
 だから私はされるがままに泣いていた。低く、ずっと泣いていた。

 これでお別れ。明日からはまた、お姉さんに戻ってフローラさんとの事を祝福しなければ。
 …だからお願い。今だけは貴方を好きだと泣く私を許して。
 明日は月光で照らされた私の想いを、また封じ込めるから。
 そして、太陽の光に照らされた二人を、心から祝福するから。


 ずっと書きたかった小説。刺繍と対になる小説です。刺繍と対なので、 あえて主人公の名前は出しませんでした。
 あちらはフローラ主役だけど主ビア。こっちはビアンカ主役だけれど主フロです。どっちも好きなんだぞー という私のこだわり。
 ビアンカは眠れなかった理由を、一般とは別解釈できないかと考えてみましたが…どうでしょうか?



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