エリン・ケイワーズ。18歳。ラダトーム城づとめを始めて1年。主に歴史書を担当してきた下級文官の一人だ。 エリンは朝日と共に目覚める。最近ようやく早起きができるようになってきた。幼少時代より夜型の生活を 送って来たために、寝起きはすこぶる悪かったのだが、やはり習慣というものは続けていれば身につくのだろう。 とはいえ、しゃっきりと起きることはできず、目覚めてしばらくベッドの上でぼんやりするのが常だ。 逆にそれを見越して早めに起きているのため、遅刻することはないのだが。 数十分のまどろみの後、顔を洗い身支度を整えたエリンは、それまでの姿が幻のように引き締まっていた。 「エリンさん、おはようございます。」 「おはよう。」 食事場へ行く途中に声をかけられた女官に返事をすると、女官はすこしはにかんで走っていく。その横では、 歩いていく自分を忌々しげに見る男がいる。 こうして集団で暮らし始めて、エリンは初めて気がついたことがある。 どうやら自分は人付き合いが下手らしい。 お世辞にも豊かとはいえない表情が無愛想に見え、お世辞などを言わない性格が冷たい人間だと捕らえられるらしい。 そうしてそう誤解されてもまぁいいかと思ってしまうこの性格は、確かに冷たく、薄情なのだろう。 友が欲しくないわけではないが、無理をして作る必要もないだろう。側にいるわけではないが、大事な人間は存在しているし、 別に孤独が怖いわけではないのだから。それに話しかけてくれる人もいる。 食事場に入り、ごった返しているテーブルに座ると、朝から元気な声がした。 「エリンおっはよー!!」 「おはよう、ジーン、今日も朝から元気ね。」 ジーンはエリンの横に座り、配膳された食事を食べはじめる。ジーンは人懐っこく、誰とでも仲良く話せる才能の 持ち主で、特に人の情報を集めるのが好きらしい。エリンにもよく絡んでくる。 「ねぇエリン、聞いたんだけど、歴史官下ろされるってほんと?」 「……さすが耳が早いわね。」 エリンのその答えにジーンはまずいものを飲み込んだような顔になる。 「それって、やっぱり、あれのせい……?」 「あれ?……ああ、この間のことね。」 当たり前のことだが、身分の高い貴族とされる人間がすべて高尚な人間ではなく、かなり困った人間もいるということを、 エリンは城づとめで学んだ。 そして以前、高い身分にもかかわらず、わざわざエリン達のような下の人間の仕事場にまで下りてきて、女性に余計な ちょっかいを出したり、あまつさえ権力を武器に女性を強引に空き部屋へと連れ込む、などという悪癖がある男がいた。 そしてある日、その評判を聞いていたエリンは、その男に声をかけられ、心身共にぼろぼろになるまでやっつけ、結果 男は城へ来ることはなくなった。 「私が前に色々愚痴っていたし……皆感謝していたけど、そのせいでエリンがなんてことになるなんて……。」 しゅん、とするジーンは、日ごろのうるささのかけらもなく、エリンは小さく微笑む。 「気にすることはないわ。たとえ相談されていなくても、結果は同じになったでしょうし、それに今回の異動は それとは関係ないから。」 「そうなの?」 「ええ、もう一つの仕事に専念してほしいと王直々にお願いされたから。」 「もう一つの仕事?」 「……子守よ。」 エリンがそういうと、ジーンは合点がいったようにうなずいた。 「なるほどね。エリンが来てから、王子様格段に変わったもんね。今まで一番苦手だった歴史の成績が格段に上がったって。」 「元々この国は閉鎖状態で、精神的に対等に接する人間がいなかったせいで、張り合いがなかったからあの 体たらくだったのではと、王様は推測されているのではないかしら。」 そういいながらも、エリンは小さくため息をつく。 「……やっぱり、あんまりやる気しないんじゃないの?エリン。あの仕事、好きだったものね。」 「まぁ、本来の仕事は終えているからいいのだけれど。それに新しい知識を得られることは喜びだわ。」 「あ、じゃあまったく別の分野なんだ。今度は何?」 「歴史も担当するけれど……帝王学よ。」 ジーンの顔が驚きにゆがむ。 「……それって、エリンが教えるの?」 「まさか。帝王学は政治の中枢まで食い込むこともある分野よ。私のようなよそ者が教えるのはおかしな話だわ。 歴史の方にも私以外にもう一人教師がいるのと同じよ。いわゆる学友という立場をとってほしいようね。」 (とはいっても、王様には何か別な魂胆があるようなのだけれど。) どうやら王は、自分に政治の一端に関われるようにしたいという意図があるようだった。これから 他国と交流するに当たって、自国しか知らない人間だけで固めることは良くはないと考えている様子だと、 エリンは感じ取っていた。 「ふーん。ま、そのあたり興味があるわね。」 ジーンは口をつぐんだエリンの意図を悟ってか、にやにやと笑う。 「まぁでもあの王子に関わるのは疲れるのは事実ね。」 「まぁ、がんばってね。エリンのファンにもそう伝えておくわ。」 「……私のファン?」 エリンが顔をしかめる。 「そうよ、結構多いんだから。特に女の子にね。なんていっても勇者の仲間だし。」 「……言っておくけれど、私はほとんど魔王退治には役になっていないわよ。それこそ情報提供が仕事だったのだから。」 建前になっているそれを口に出すが、ジーンにまともに相手にされたことはない。 「はいはい、勇者様。そっちの仕事は終わったんでしょ?」 「ええ、書物は完成したわ。あとはOKが出るのを待つだけよ。だから心置きなく移動できるのよ。……ごちそうさま。 それじゃね。」 エリンはすばやく立ち上がり、食器を戻すために移動する。そうして図書室へと向かった。 歴史書をまとめ、わかりやすく分類するという仕事を与えられていたエリンには、図書室の奥に一つ机が用意されていた。 だが、それも今日までで、今日の仕事はその整理となりそうだった。 「エリン、やめるってほんとうなの?」 エリンが入る前からここで働いていた女官たちがエリンを取り囲む。 「そうなの。王様が別の仕事がしてほしいのですって。心配しなくてもどちらかというと出世よ。」 エリンは皆を安心させるように笑った。なぜならエリンはここの室長にひどく嫌われていたからだった。それもそのはず、 いままで溜め込んでいた仕事を綺麗に片付け、かつ誰にでもわかりやすいように纏め上げたエリンのせいで、 室長の評判とか権威とか言うものは微塵と消えていたからだった。 「エリンがいないと寂しくなるわ。」 「そうね、書類の整理も大変になるし。」 口々に言い合う女官にありがたいと思いながら、エリンは微笑む。 「ここは好きだから、個人的にもまた利用させてもらうと思うわ。よろしくね。」 そういいながら、机に向かうと、エリンあての書類や手紙がいくつか置かれていた。そのうちの 一つを手に取り、両面をしっかり眺めた後、とても嬉しそうな顔をして、エリンはそれを大切にしまい込んだ。 昼食をとった後、荷物をまとめ、与えられた自分の部屋へと戻る。自分の執務室と化したこの部屋は、ベッドルーム以外はほぼ 本やら資料やらで占められていて、エリンにはとても居心地が良かった。 これからの仕事は、まず帝王学の基礎をつかむことだ。もちろんこれは独学でなんとかなるものではないため、 週に1度、王子と同じ家庭教師に教わることになり、そして週に2度、王様自らエリンに指導をしてくれる、 らしい。 あまりにも優遇されているため断ったが、これも国に新しい風を通すためだと押しきられた。了承してしまった 以上、恥をさらすような問答はできない。 まずはしっかりと学習すること。それがエリンの仕事だった。 物事を知ることは、とても楽しい。それは世界の広がりを意味する。世界が広がるということは、 その世界は自分ひとりのものではないと知ることができる。 がんがんがん、と優雅の欠片もないドアノックの音がして、エリンは読んでいた書物から目を離す。 「はい、開いているわ。」 「これでどうだ、エリン!!!!」 いつものごとく騒がしく入ってきた王子に、エリンは小さくため息をついて向き直る。 「確か今回の課題は、リムルダールの紅抗争だったわね。」 じっと読み、手近にあった資料をめくり、そして顔を上げる。 「どうだ、非の打ち所もないだろう!」 威張る王子に、エリンは難しい顔をする。 「そうね、確かに以前とは比べものにならない出来ね。特に第3章のメルキドの槍戦争と絡めているあたり、 まったく想定していなかったわ。こっちの結論もいいと思うわ。次に活かせる答えが出ている。しっかりとした 筋の通った展開だわ。」 そうほめられて、王子の顔がぱあっと輝く。 「けれど、まず、1章第三行、このスペリングでは意味が通らないわ。あと5章に二つの誤字があるわよ。それとここ、 2章のこれはこの文献じゃなくて、ローティーのすべての方が良いのではない?」 「いや、これはあえてこちらを選んだんだ。そうでないと、5章につながらない。」 「けれどここでこの例文を出してくるなら……」 そうして二人はいくばくかのディスカッションを交わす。 エリンは論文を王子に返しながら、にっこりと微笑んだ。 「でも、これからば図書に並べてもおかしくないと思うわ、王子。」 「ふん、お前に言われるまでもない。私は優秀なんだ。」 そういうと王子は、なにやら箱をエリンの机の上に置いた。 「お前にほどこしてやろう。お前ごとき下賎な生まれのものがこれを食すなど、身に余る栄誉であろうが この先もこの私と関わる機会もあるだろうゆえ、少しはこういったものにも触れておいた方がいいだろうからな。」 あーっはっはっは、となにやら高笑いをあげながら、突然王子は部屋を出て行く。 「……なんなの、一体……。」 あけてみると、なにやら凝った装飾がほどこされたお菓子だった。一つ口に入れてみると、ほのかな甘みと玉子の風味が おいしく、ほろりと口の中で解けていく。 「おいしい……せっかくならお茶でも入れるのに、良くわからない人ね。」 こんないいお菓子なら、せっかくだからとっておきの紅茶でも入れようと、エリンは機嫌よく席を立った。 夕方は、また疑問に思った資料を集めるために図書館を回り、学者の所へも足を運ぶ。その後、レポートをまとめ、 提出できる体裁を整える頃には、もう夕飯の時間になっていた。 夕飯をとれば、あとは自由時間だ。寝支度を整えたエリンは、一日の終わりの楽しみにととっておいた手紙を取り出す。 封筒の中には、手紙と、そして綺麗なピンクの石のチャームが入っていた。エリンは手紙を広げる。 ”エリン・ケイワーズ様 元気ですか?俺は元気です。実は皆にこの年で「僕」はかっこわるいと言われ、俺って言う訓練をしています。おかしいかな?” カザヤはとても筆まめだったようで、監査役が船からルーラで戻って報告するたびに、必ず手紙を送ってくる。 カザヤの手紙は、掛け値なしに面白かった。 丁寧で少し細長いカザヤの文字は、カザヤの声さえ聞こえてきそうなほど、楽しげだった。 ”俺が今いるのは、ベラヌールという町で、教会が中心の宗教都市だよ。そういうとメルキドを想像するかもしれないけど、 もっとこうアクティブなんだ。体を鍛えている人も多くて、特に年に一度の武闘大会が盛り上がるんだそうだけど、 残念ながらもう3ヶ月前に終わってしまったんだって。あと、ここはとても水が豊かで、あんまり食肉の習慣がないみたい。 魚もおいしいんだけど、水が綺麗だからおいしい野菜、特に菜っ葉が名産らしいよ。” こうして、世界の情景や立ち寄った町の特色をエリンにわかりやすく教えてくれる。そうするとエリンの世界がまた広がっていく 気がして、とても幸せになれるのだ。 ”一緒に贈った石は、この川の水で削られて丸くなった石で、水の祝福を受けてるってことで持ってると幸運が 訪れるんだって。その色は、この町が夕方になった時に、水に反射して町中が染まる色にそっくりなんだよ。 建物も白いからとても綺麗なんだ。いつか一緒に見たいな。それじゃ、俺のこと、どうか覚えていてね。カザヤより。” カザヤはどこかに立ち寄った手紙を送るたびに、こうして何か一緒に入れて贈ってくれる。それはたとえば押し花で あったり、こうしたみやげ物であったり、落ちていた貝殻だったりとさまざまだが、それがまたあちらの空気を伝えてくれるようで、 エリンには嬉しくなる。 手紙をもう一度読み返し、チャームを見て微笑むと、エリンは便箋とペンを取り出した。 ”カザヤへ 元気そうでなによりね。こちらの体調は変わりないわ。そろそろラダトームの気候は少し寒くなり始めるそうだから 注意が必要だけれど。そちらはどうかしら? 俺というのは意外だけれど、男性というのはそういうものなのかしらね?城にいる男性の大半は 「私」と呼称しているようだから良くわからないわ。 ロトの歴史書がついに完成したわ。我ながら見事な出来だと思うわ。後世まで残る最高傑作だと思うの。 これできっと、ロトの正しい姿が伝わるに違いないわね。とても楽しみだわ。 それに伴って、私の仕事が少し変わったわ。今度は王子の教師に専念してほしいそうで、 帝王学を学ぶそうよ。やりがいがありそうだけれど、少し残念ね。歴史書の整理はまだ終わっていなかったから。 もちろんそちらの方もやってもいいそうだけれど、しばらくは暇がなさそうなの。けれど帝王学なんて、 この機会でなければ学べないでしょうから、私は幸運だと思うわ。 ベラヌールのことは、少しだけ読んだわ。神殿にあるステンドグラスの作成に、こちらの職人も 何人か参加したそうよ。夕日が当たると美しい影を残すというから、もしよければ見てみると良いかもしれないわね。 お土産ありがとう。とても嬉しいわ。もっとも幸運は旅をしている貴方の方にこそ必要だと思うけれど。 せっかくだからこちらからそういう念でもかけてみようかしら。効くかどうかはわからないけれど。 カザヤのことを忘れるほど薄情ではないつもりよ。また夕日を見たら、貴方を思い出すでしょう。それでは カザヤの旅に幸運があるように。エリン” 青空の下で、恋する相手からの文を読み終えたカザヤが、にやにやと笑う。しつこいほどに出す手紙に、 エリンは必ず返事をくれる。 そんなまめさも、実直な文字も、そして気遣う言葉の全てが愛しくて、今すぐにでも会いたくなる。 深く落ち着いた声が、そのまま囁かれているようで、心に張り付いていく。 「おい、カザヤ、休憩終わりだぞ。」 「あ、うん、ごめん。」 カザヤはその手紙を大事に内ポケットにしまいこんで立ち上がる。 広がる青空を見ながら、エリンの髪の色をした夕焼けを早く見たいと思った。 |
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